最近、日本の
「同調圧力」
という言葉がよく聞かれるようになりました。
これ、最近出来た言葉だと思うのですが、私は昔から、「みんながやっているから…」とか「やらねば」とか強制的なものは嫌いで、なぜみんな同じことをできるのか(しようとするのか)わかりませんでした。
この事と、最近旦那から出た言葉で、
「人は本来自由なもんなんやぞ」
という言葉に結び付けて考えたいと思います。
目次
社会風潮というのは、一種のルールなんだと思います。
ルールだから、みんなやっていることが当たり前で、自分も
しなければらならない
という強迫概念に襲われるのだと思います。
いや、むしろ、もう自分でもそうするのが当たり前過ぎて、
みながやることは自分もやる!
という自分ルール(自分マニュアル)を自分に課しているのかもしれません。
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なので、なんにも疑問も持たず、
というようなことを自分の頭で考えるクセがついてなく、むしろ、
そんなの考えるだけ無駄
と思っているかもしれません。
それはなぜか?それが
大多数派
だからです。
大多数に少数派は勝てない、と頭にあるのです。
もし、風潮に従わなければ死ぬのでしょうか?
例えば、殺人など明らかに犯罪だとわかる場合は刑務所行でしょう。
しかし、風潮というのは、結構曖昧なものが多い気がします。
自分で選択する、という余力は残されている気はするのです。
にもかかわらず、
…ねばならない
という思いに駆られて、したくないのに嫌々やる。
これが酷くなり心と身体が反対の事をして、心が悲鳴を上げている状態が昨今多くなっている
鬱
です。
ですから、鬱っぽくなるというのは、
やりたくなくて、無理をしている自分
を認めて、「逃げる」という事を自分に許してあげるべきです。
世間では、「逃げては駄目」という風潮ですが、あれは間違いで、自分の生命を守るためなら「逃げる」という手段はとても有効だと知ることです。
むしろ、自分マニュアルで、
鬱っぽい症状が出始めたら、サッサと逃げる
というふうに決めておくのが有効なのではないでしょうか。
私はそう思います。
そして、単に「逃げる」だけではなく、何か逃げることによって「メリット」を作っておくのが良い解決策だと思われます。
例えば、嫌々働いていた職場を辞めて、今までやりたいと思っていたことをこの機会にやろう!
嫌々働いていたけれど、そのおかげで貯金は少し出来た。それをずっとやりたかった事に使おう!
とか。人間は、思い出というもので出来ていると行っても過言ではないので、楽しい思い出を作ることは、かなりの人生での「メリット」となるに違いありません。
風潮や規則には
これおかしくない?
というのがいっぱいあるような気がします。
でも、それを指摘する人間は時と場合によっては、
危険人物
とみなされてしまうこともあります。
私は、世の中は理不尽だという事は理解しています。
しかし、この世界を牛耳っているのは一握りの人間で、社会システムはその一握りの人間達が富を得るためのシステムにしているので、疑問を持ったり、追及したりするのは、そのシステムで恩恵を受けている人達にとって「都合の悪いこと」であり、「邪魔な人物」であり、「自分達の生活を脅かすことになるかもしれない危険人物」であり、「敵」なのです。
これは、社会システムだけでなく、もっと小さい社会であり、学校や地域など、いろんな環境で言えることでしょう。
でも、理不尽な事は素直に
なぜ?
と思うのが自然です。
疑問を持つことを止めてしまったら、そのツケが自分達に返ってくる事になります。
理不尽な事へ追及しなかったツケが…。
人間は考えることを止める時、宝物を手放すのかもしれません。
さて、最近、旦那さんが言った
人は本来自由なものなんやぞ
という言葉の意味を考えてみました。
確かに、今まで「…しなくちゃならない」と思って、嫌々やっていた事が日常に多い気がしました。
自治会の役、ゴミの掃除当番、働くこと…etc…。
でも、本当にやらなければならないのでしょうか。
嫌なら、いつもの「問題解決マニュアル」に沿って、
どうしたら正攻法でそれをやらなくて済むか?
という事を考えれば、解決策は必ずあるはずです。
◎「解決方法の思考」についての参考記事はコチラをご覧ください→コチラ
やりたくない事をやらないで済む解決方法を考えていけば、必ずあるはずで、解決していない、という事は、ずっと歯になにかが引っかかっている感じがずぅ~~っと続くと思っていいでしょう。
極端な話、人付き合いでも、つきあいたくない人と付き合わないためには?
という問題は簡単です。
付き合わなければいい
です。
人間は本来自由、というのは、やりたくないことはやらなくていい、という事なんじゃないか?
ただ、それを解決するためには他の方法などを代替策として持ってこないといけなかったり、人からの奇怪な目に晒される、という事だけです。
自分の幸せを優先するには、他人の目を気にしては得られない、という事ですね^^
日本において、
他人を気にしない
というのは日本人には難しい事なのかもしれません。
日本の「集団生活」の教育システムで、日本人の根っこの部分に刷り込みされてしまっているからです。
しかし、時代は既に「個」の時代。
そして、今も昔も、「自分で考えて自分の責任で動く」という事は大事だと思われます。